ライターは真夜中に目を覚ます。

ライターで一本立ち日記。猫飼ってます。バンドやってます。たまに高校生男子のお母さんやります。

図書館の仕事が合わないと今頃気付いた話

図書館の仕事のイメージって

カウンターに座ってピピッと読み取って貸出返却してて楽そうって思われていることが多いです。

あー!でも違うんです。

もちろん貸出返却大事なんです。気を遣います。利用者の方と直接顔を合わすところだしここで図書館の印象が決まります。

それに意外とトラブルがあります。

 

借りた人「督促の連絡きましたけど返したはずです!絶対返しました!」

図書館の人「データでは返されていないことになってるんですよ、ご確認を」

後日、借りた人「友達の家にありましたーてへ!」なんてことはザラ。

辞書は禁帯出本なので貸すことはできないのですが、

「頼む!今日だけ特別に貸してくれ!」とか。

 

働いているのは大学の図書館なのでそういったトラブルは頻繁ではないです。

公共図書館は本当大変だと思います。

 

私が合わなかったのはとにかく仕事が細かいってこと。

普段は学術雑誌にまつわることほとんどを担当しています。

雑誌の購入から支払いから、目録作成から製本作業から雑誌の所蔵統計からまあいろんなことがあります。

全部細かいです。

 

雑誌って「1月号」「2月号」などの他に、1巻3号通号100号のような表記があります。単に1号だったり、通号100号だけだったりする場合もあります。年表示も西暦だったり元号だったり。

 

新しく雑誌が入ったら、必ずこれらの年や巻号を入力します。このデータは間違えることは許されません。

なぜなら「この雑誌を何年の何巻何号から何巻何号まで持っている」というデータとして学内だけではなく他の大学図書館からも検索されるからなのです。必要としている人に間違ったデータを提供するわけにいかないですよね。

 

しかし字が細かい上に、雑誌によって書いてある場所が違うし、あーすみません😥たまに間違えちゃいます…

 

購読している雑誌がいつもと違う増刊号が出れば、書店に注文しなければならない(時々チェックしておくのです。書店の人は教えてくれません)、

学会があれば学会の講演要旨集を購入する手続きを取らねばならない、あ、そうだそろそろあの学会に年間講読料を払わなければ!(請求書送ってくれるところはいいけれど、こちらから言わないとダメな学会があり笑)、5年保存の雑誌の5年目が来たからデータ消して捨てなくてはーと毎日細かいです!

もちろんメモってあるしタスクで書いてあるけれど、あれこれやっているともうわけわかんなくなってしまうのです。

360度の視界を必要とするような感じで常にあちこちにアンテナ張ってないとできないのですね。

そういうのが得意な人はたくさんいて、私は残念ながらそうではないと。

この仕事が好きだと思い込んで、なんとかやろうとしていたけれどできなかったのです。

何しろ数を数えるのが苦手で(ちょっと頭おかしいのかな)数を数えてなんぼみたいな仕事でもあるのでやめる決意をして本当に良かったです。

 

しかし図書館の仕事では最も得意とするのがありまして、「レファレンス」といって

「こういう資料を探している」「◯◯について調べたい」という利用者からの質問に答えるのがとても得意でした。ばっちりあった資料を提供するのが本当快感です。

ある意味これからフリーでやる仕事は、レファレンスに近いのかもしれないなと思います。

 

図書館の仕事もあと少し、なるべく頑張ります…

 

 

ものすごく落ち込む時もあるけど

自分ではどうしようもない、考えてもどうにもならないことは、たびたび起こるもの。

相手があることでどうしようもない時は結構つらい。

 

そしてうまくいかないことや、傷つくことだってある。

そのことで頭がいっぱいになって、胃が痛くなることもあります。

 

そんなときは

好きな飲み物、例えば紅茶とか飲んで

好きなお菓子食べて。ここまでオッケー。

 

そして寝っ転がってぼんやり、までが今までの自分だった。

でも今は寝っ転がらないで、自分を奮い立たせて立ち上がって仕事して、キーボード練習して

ざばーんとおふろはいって

ドカンと寝る!

 

落ち込むループから抜け出すには、寝っ転がらないのが効果的です、自分は。

 

 

 

お腹が空いている方が仕事ははかどる&LG21ヨーグルトがすごすぎる

今更何を言っている!という感じですが

空腹気味の方が仕事がはかどりますね。眠くならないし。

空腹の方がいいという方は多くて、やっと気づいたかーと言われそうです。

 

 

図書館事務の仕事が今はメインなので

シーンとした事務所でお腹が「ぐーぐー」なるのが嫌なのですが

引き出しをガッタガタ開けることでごまかしています。

 

お昼はお弁当作ったのを食べているのですが

物足りないなあ〜と思うのが嫌でつい多めにしてしまうか、おやつをつけてしまっていました。

でもおやつはやめてご飯は雑穀米にしてよく噛むと、それほど物足りなさも感じません。

たまにセブンイレブンの野菜がたくさん入ったスープ(生姜が入っている)をプラスすると結構満足。このスープは生姜好きには美味しいと思うのでオススメ。

 

あとはヨーグルト「LG21」を食べます。

「LG21」食べるようになってからというもの、いつもお腹が張って痛かったり、しょっちゅうお腹壊してたのが本当にぴったり治ったのです。

LG21の回し者じゃないけど、今までの悩みが嘘みたいです。

ちょっとお高いのだけれど、大きな薬局の食品コーナーなどで安売りしていることがあります。

 

今はたぶん太っているということはないはずので笑、なんとかこのままキープしていきたいのですが、フリーで仕事すると運動量が減るのでますます気をつけないと!

 

今は体が軽くて快適です。

 

ほどほどに食べるのがやっぱりいいんだなあとつくづく思いました。

 

 

 

1月雑感 自分のやりたいことを明確に。仕事と音楽と。

この前お正月休みだったのに、もう1月も終わっちゃいます。

今年も駆け抜けていきそうな予感です。

 

自分としては初めてフリーで働き出す年となるので、楽しみとその楽しみの陰にチラチラと見える「不安」という文字。

でも不安って前にも書いたけれど、目の前のことを一生懸命やることで

消えていくということを実感したので、もうあとはやるのみです!

不安を覚えた時は、「あ、ちょっと一生懸命やってなくない?」と自分を振り返る、と。

 

そして。音楽もそう。

音楽に対してはジレンマがあって、自分の思う目標はやればやるほど遠くなっていく気がします。

やってもやってもまだまだで、山登りをしていて頂上が見えそうでもガスが出たりばててしまってなかなか近づけない感じです。

 

でもとにかく楽しい!の一言。

バンドがこんなに楽しいものだとは知らなかったです。

 

小学校中学校とピアノを嫌々習っていました。

泣きながら弾いたこともあったっけ笑

 

なぜ嫌々なのかってクラシックの先生って怖い人が多い印象なのだけれど、まさにそのステレオタイプのおばあさん先生で本当に怖かったのです。

でも毎回美味しいお菓子を出してくれるのがとても魅力的でした私

 

コードもろくにわからなかった私がなんとか弾けるのは、このピアノを習っていたことが結構大きいのです。

指が覚えているのはありがたかったです。

 

ピアノを習わせてくれた、今は亡き父親に感謝するのと根性でやめなかった当時の私もちょっとホメようと思います!

もしかしたら、ビシビシ怖い先生だから続いたのかもしれないと思うこともあります。

 

なんだかんだ言って小学校でも中学校でも音楽クラブみたいなのに入っていたので、きっと好きだったんだろうなと思います。

 

 

楽譜が読めることでつい譜面に頼ってしまうのだけれどこれを卒業するのが目標。

そして初見コード弾きでボーカルさんの伴奏をすることを今年の春から始めます。

とっても楽しみなのだけれど、人の伴奏は難しいです、ホントに。

 

とにかく歌の魅力を最大限に引き出せることを目標に、息のあった音楽を聴いてもらえるようにしていきたいと思っています!

 

 

コード理論はなかなか苦戦中なのですが、明確に理解するために自分でコード理論を人に説明する文章を書いてみようかと。

 

昨日はせっかく覚えたはずのトニック、ドミナントサブドミナントのことをぽっかり忘れていて、情けなくてかなり落ち込みました・・・

が気を取り直して、忘れたらまた覚えればいいと楽天的に笑

 

 

今、バンドは3つやっています。

それぞれ音楽性ややる曲が違うのでどのバンドも目一杯楽しむのと去年よりさらにパワーアップしていきたいな。

 

バンドをやっているおかーさんというのも、なかなかかっこいいと多分息子も思っているはず!笑

 

まあかっこいいとは言わないけれど、音源や動画を観て(観させられて)感想を言ってきたり

今度はこんな曲をとリクエストがあったり、と

なんだかんだ応援してくれています。

 

自分に厳しく優しく楽しくをモットーにがんばります!

 

 

 

俳句を作っていた頃

10年以上も前にもなるでしょうか俳句を作っていた時期があります。

俳句って年配の人の趣味というイメージだったけれど、とある俳句の会に誘われて行ってみるとそこは大学生や若手のサラリーマンが多かったです。

もちろん年配の方もいらして、年齢関係なくみんなでワイワイやってて楽しいなあと思ったのがきっかけで始めました。

 

俳句の会では誰もが平等で、作者がわからないようにもちろん無記名で出し、更に手分けしてみんなで書き直すのです。文字の癖でわからないようにするため。

それを順番に回してめいめいが好きな俳句を選ぶのです。

そして、選んだ俳句を提出してその日の当番?が読み上げる。

そして自分の俳句が選ばれたら、名乗りをあげる、そんなシステムでした。

えらい先生の俳句でも誰にも選ばれない時もあるし、始めたばかりの人の俳句が評判が良かったりする。

ハマりました、その時は。

 

そして俳句の先生についたのですが、その先生の男気というかいつもやること話すこと筋が通っていて、誰にでもフェアである先生の人柄に惚れ込みました。かなりの年配の男性ですが。

そして半端ない読書量と教養、すべてが素晴らしかったのです。本当に何でもご存知でした。

その先生につくって、例えていうと正岡子規に教えてもらうとか高浜虚子に教えてもらうとかそんな感じなのです。

 

俳句を作るために旅行もあちこち行きました。北から南まで。特に良かったのは能登です。

俳句旅行のこと今度書こうかな。

 

若手の俳人ということで俳句雑誌にも載せてもらい、先生に序文を書いていただいて句集も出しました。

こんか名誉なこと、本当になかなかないのです。

 

ところが俳句を作るのをやめてしまったのです。

先生が亡くなったのがきっかけかもしれません。

虚しくなってしまったというのか、いくら作っても二番煎じというのか、どこかで見たような、誰か知っている人がみれば私の俳句だとわかってしまうようなのしか作れなくなりました。

 

新しくできる俳句結社にさそわれたり、昔からある俳句結社に行ってみたりしたのですがどうにもやる気がなくなってしまいました。

正直にいうとつまらなくなってしまったのです。つまらない、は言い訳かもしれません。

 

本当はこれを乗り越えればもしかしたら新天地が待っていたのかもしれないのに、乗り越えようとしなかったのは能力の限界だったのだと思います。

能力を上げようとしないで逃げちゃったということ。

 

また作る日が来るのかどうかわからないけれど、俳句歳時記は捨てずにとってあります。

こんなこと書くってことは未練があるのかもしれません。

 

 

 

 

 

なんだか洋服の持ちがよいという話

最近は服を買うところといえば

しまむらがお気に入りです。

スキニージーンズ900円だったんですよ、

この前。

しかも履きやすいことこの上なくて。

 

元々それほど新しい服を買いまくるタイプではなく、手持ちの服に合いそうなのを少し足すという感じでいます。 

おしゃれするのが嫌いというわけではないけれど、あるものでなんとかしたいなと。

 

そんな生活をしていてふと気づいたら、30年近く着ている服もあって自分でもびっくり。と書いたところで20年くらいの間違い、と気づきました笑

 

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このagnes.bのカーディガン。温かいです。シンプルで何にでも合います!

日本語のタグは手洗いも×だけど、英語表示では大丈夫そうなので、時々優しく洗ってます。

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洗っても大丈夫そう。

 

これのニットもagnes.b。もともと好きなブランドです。着やすいのとシンプルなのが好みです。

 綿のニットで肩のボタンが好きです!

秋とか春に着まくってます。

 

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これもagnes.bの綿のカーディガン。お揃いのスカートがあったけどさすがにお尻のあたりが生地が傷みました。

でもカーディガンは全然なんともなし。これも30年着てます!笑じゃなくて20年くらいです!

 

 

あとはラルフローレンのスカート。

定番中の定番という感じ。少し太るとキツいのでおデブ警報の目安にしてます。ビクともしない丈夫なスカート。ファスナーが少し固くなりました。これは25年くらいですねー

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こうやってみるとグレーと黒ばかりでした!

あと何年着られるのでしょう。 

もう少し愛用したいなあ。

 

あの世に逝ってしまった兄貴のことなど

私には兄がいて、6歳ほど年が離れていたので小さい頃から

可愛がってくれていたと思う。

頼みもしないのに野球を教えてくれようとしたり、

サッカーを教えてくれようとしたり。

残念な運動神経の持ち主だったので、

兄貴の期待にはまったく応えられなかった。

兄の置いていたお菓子を食べても全く怒らずいいよいいよと

笑ってくれる優しい人だった。

 

兄は心根は優しいけれど見栄っ張りなところがあった。

大学生までは笑える話も、

社会人になったらダメ男の話に

なっていっていた。

 

一応はちゃんとサラリーマンしていたけれど、

身分不相応なものを欲しがった。

金遣いがとても荒いのだった。治らないやつだなと思った。

 

すごくかわいい子と長い間付き合っていたけれど、

婚約直後に振られてしまった。

私も彼女と一緒に遊びに行ったりしていたからその時は寂しかった。

今思うと彼女の決断はとても正しかった。

 

兄はその後またかわいい女の子と出会い、都内有名結婚式場で結婚式を挙げた。

私はそのお嫁さんのことがもやっぱり好きで泊まりに行ったり(今考えると迷惑)、

遊びに行ったりしていた。

二人の間に子供はいなかった。

 

何年か経って、突然お嫁さんは離婚したいと言い出した。

全ての貯金を兄の借金の返済に使ったのだという。

平和なはずだったのに、一気にとんでもないことになっていたのだった。

しかも会社なんてとっくに首になっていた。

それなのに兄はすごく強気で転職先は受かるとはおもえない

大手ばかり狙っていた。

お金の使い道は女性でもなく博打でもなく、単なる見栄っ張り代だった。

 

お嫁さんは兄の元を去っていった。

私は「ごめんね、お兄ちゃんのせいで」と手紙を書いたけれど返事はなかった。

仕方なく実家に戻った兄は、ほそぼそと仕事をしつつ両親と暮らすことになった。

 

私の子はまだ小さくて、実家に連れて行くと手放しで喜んでくれた。

サッカー教えてあげるよ!と私に教えたように教えたがった。

あとからわかったけれどそんな中でもこそこそと身分不相応な買い物を続けていた。

 

そんな日々が続いたある日、兄貴は気付いたらガリガリになっていた。

そして苦しいと言って歩けなくなった。

10月に病院に行った時、12月までもたない、好きなことをさせてあげて

と告げられた。そしてそのことは本人は知らない方が良い、とも言われた。

自暴自棄になってしまうから、と。

 

入院となって、一度だけ家に戻り10日間ほどを過ごした。

家はいいよな!と言いながら帰ってきた兄に、母は何でも好きなもの食べなよ、と張り切って用意しようとしたが、兄が食べたかったのは

宅配ピザだった。

でも一切れ食べるのがやっとだった。

それでも家で過ごすのは楽しかったようで、うちの子を抱っこしたがった。

私は「せっかくだからツーショット撮ろう!」と兄が抱っこしている写真を撮った。

これが最後だろうなと思いながら。

 

兄は一度杖をつきながら出かけたこともあった。あんなに運動神経の良くて背も高かった兄が杖をつくなんて。

街でほとんど残したもののラーメンを食べたり、本屋に寄ったりしたようだった。

疲れたなあと言って帰ったものの満足げだったが、翌日には病院に戻らなくてはならないほど具合が悪くなっていた。

 

兄の死後に知ったのだけれど、父はこの日の兄と同じルートを同じように歩き、同じラーメンを食べていた。

在りし日の兄を思いながら歩いたことを思うと胸がいっぱいになる。

 

病状はどんどん悪化していて、手術も薬も効かない状況だった。

お腹の筋肉に悪性腫瘍ができていたのだった。

医師は「良性の腫瘍で、体力がついたら手術しましょう」とごまかし続けた。

でもお腹が痛いと苦しみ始め、モルヒネを打っては朦朧とする日々が始まった。

 

12月までもたないと言われた兄はお正月も頑張り、桜も見ることができた(病院からだったけど)。桜はぼんやりとしか見れなかっただろうな。そして葉桜が出てくるころモルヒネで朦朧としながらもうちの子に「俺のことは忘れないでくれよな」といった。

 

そしてその数日後、帰らぬ人となってしまった。まだまだ若い、40ちょっと。

両親はもちろん、家族みんなが泣いた。

お嫁さんだった人には知らせなかった。

家族の明るい救いはうちの子の成長しかない、そんな日々が続いた。

 

 

ある日父の夢に兄が出てきた。

とてもリアルで、リビングのソファに座っているので思わず

「お前死んだんやぞ」

と夢の中で父が言ったそうだ。兄は笑って

「知ってるよ。触ってみて、消えるから」

といって父に手を差し伸べたという。

そうしたら本当にサアーっと消えてしまったのだという。

 

母はそれを聞いてずっと泣いていた。

でも「あの子は死んだ方がよかった、みんなのためにも死んでよかったんや」と言った。

 

 兄はダメな男だったけれど優しい人だった。

死んでからも借金があることがわかった。本当にダメな兄だった。

母の死んでよかった、はこのことだった。みんなに迷惑かけ続けるから、そんな息子を見ているのは辛すぎるんだろう。

 

亡くなって3年ほど経った頃か私は兄を思い出して泣いていた。

「お兄ちゃん、私の声が聞こえるならなんでもいいから返事して、

聞こえてるって教えて」と声をあげて泣いた。

 

その日の明け方4時ごろ、家の電話が鳴った。

私は兄だなと思った。慌てて出て「お兄ちゃんなの?」

と聞くと無言で切れてしまった。

 

多分絶対間違い電話だろうけど、やっぱり兄からの返事だと思っている。

 

そんな兄の誕生日がもうすぐやってくる。

ダメなお兄ちゃん、お誕生日おめでとう。